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象形文字にも文法...
2008-04-15 Tue 23:21
考古学にも興味があり、遺跡をめぐったり、当時の資料を読んだり、画像や写真を調べたりしていると昔の人々の生活からいろいろな文化や発見がありますね。少し前にシンガポールに行ったときフォートカニングというところの博物館に行って、その起源をみたときは、アジアの文化発展期を見ているようで、興奮しました^^
その中で、エジプトの本を読んだときですが、古代エジプト文明に使われたとする象形文字−ヒエログリフにも文法があったのですね。

超著名な考古学者・吉村作治先生がお書きになったヒエログリフについての本を読んだのですが、「限定詞」とか、動作を表すことば、固有名詞は四角で囲むとかがありました。一見、絵文字が適当に並べられていると思いきや、ちゃんと規則性があったとは! そんな大昔から、人間は構造的に考える脳があったのですね。

ことばは文化といいますように、やはり体系的に自国や地域の文化や考え方を伝えるには、体系的、構造的に整理されたことばが必要なのですね。コミュニケーションの原点は、思想の体系化でしょうから...。

現在では、合理主義が中心に動いている欧米文化が世界を暗黙のまま支配しているかに見えますが、その遥か前には、発達した文化がエジプト文明−現在では残念ながら先進国には入れられていない−にあったとは驚きです。

現在の先進国とは世界大戦の戦勝国を中心に、“経済面”での先進性をベースに考えられているのですが、文化や精神性の優れた国や地域こそ、先進国というべきではないかと思ってしいますね^^

ヒエログリフー。もっと研究してみたくなりました。

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ソシュール
2008-03-26 Wed 23:23
最近、言語学のいろいろな本を読みなおしていると、なつかしい“構造言語学”がよく出てきます。ことばがあって人間は物事を認識できるという考え方です−ソシュールの理論ですね。

これに関連して、認知言語学、ウィットゲンシュタインの発話行為理論などが出てきますね−。

ことばをめぐってはいろいろな捉え方があります。聖書でも「はじめにことばありき」といわれていますね。神がことばを発したら、そのようになる、ということですが、これは、人間の想像もあるのかもしれません。脳の構造上、命名したものを優先的に認識できるというのがソシュールの考え方ですね。

確かに、りんごを見て、”りんご”ということばがあるから、認識できているようにも思えます。しかし、りんごということばが作られる前はどうだったかという疑問もわきますね。

 エスキモーの雪に対する考え方、遊牧民族と農耕民族の使う”牛”に対する区別する語句区分が大きく異なるように、地域や人間の生活主体や考え方がことばに先行しているように思います。

 翻訳では、現在、イメージをつかみ、他言語で表現する技法が主流ですが、もっと昔は、漢文のように構造的に分析していましたね。ソシュールからウィットゲンシュタインの発話行為まで、脳の認識構造が問題にされています。サルトルやフッサールという哲学者が実存主義を提唱し、はじめにものありきというような考え方を提示しました。

 しかし、この後者の考え方だと、翻訳は不可能となります。
脳に何かのイメージが浮かぶからこそ、言語が変わっても、想像を表現に変えて、他言語で表すことができると思います。この点で、動的機能翻訳は優れた理論であり、実践に生かされているのではないかなぁ、と思いますね。

 意味論、語用論が細分化され、言語学が構造つまり、意味やことばが作る周りのムードからも研究が進められていますが、それが効果的で、分かりやすい翻訳を開発する大きな足がかりとなっていると思います。

 専門的な話になってしまいしまたが、このような理論的な研究を進めていくことで、さらに安定した翻訳技法を確立できることになるとも思うので、今後も大切な役割ですよね。

 翻訳理論や通訳理論を考える団体や学会がありますが、期待したいですし、可能なかぎり参加していきたいですね。


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歴史探索−長岡宮
2008-02-24 Sun 23:21
桓武天皇縁の長岡宮跡に行ってきました。
京都は視界がときに遮られるほど雪がかなり降ったり、晴れ間が覗いたりの落ち着かない天気でした。
ここは天智天皇以降の系統が変わった宮です。近年まで謎とされていた都です。
史書には平安京に遷都する前に置かれた都とありますが、その存否さえ不明でした。
数十年前より発掘が本格化し、その姿が少しずつ見えてきています。



宮跡正面


大極殿正面(現在は公園に整備されています)


大極殿公園入口


宮での儀式が行なわれた場所跡


後殿−向かって左後ろに梅が咲いています


長岡宮の俯瞰図

この時代は、古代〜飛鳥(藤原時代)、平城京へといたるまで、律令制度がしかれたものの、政治基盤が今日のように固まってはいませんでした。天皇の政治やプライベートの状況によって宮が頻繁に移されています。長岡宮から平安京のあたりでやっと落ち着いた感じです。

今は、都市となっている大阪と京都周辺にはまだまだ謎解きに駆られる歴史ミステリーがふんだんにありますね。


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学術名いろいろ…
2007-12-08 Sat 23:57
今使われている学術名のほとんどはアリストテレスなどギリシャの賢者が考えたものらしい...です。

母校のニュースレターを見ていて、そんなことをふと考えてしまいました。古代ギリシャには、ソクラテス、プラトン、アリストテレスをはじめ、多数賢哲が輩出されています。当時、学問の分野分類はそんなにしっかり確立されておらず、当時の学者は幅広く実地(フィールドワーク)含めて研究をしていました。

ふと考えれば、時代は進み、レオナルド・ダ・ヴィンチは、美術だけではなく、解剖学(医学)、哲学から飛行原理(流体工学)、建築学と実に、多分野にわたって、その才能を発揮しています−。そもそも、”学問”自体が一つの仕事で、細分化はされていなかったのでしょう。時代背景や人口希薄というのも起因しているとは思いますが...。

人体図

最後の晩餐

こんな話題を出した理由は、昨今、”哲学”という学問が若年層の支持を得なくなってきているという、ある記事を読んだからです。その記事では、哲学的な考え方を若いとき、大学のときなどに勉強しても、その流れや歴史、要点は覚えていても、本当にその真髄を肌にしみて理解できるのは、40代後半から50代を過ぎたあたり−人生もいろいろな経験を積み、人間関係もそれなりに経験してきてからだ、といいます。 

 本来、哲学とはPhilisophy の日本語訳で、”希賢学”と訳され、賢と哲とは同義であるため、響きから、”希哲学”になり、哲学になったという経緯があります。賢哲の知恵を学ぶ学問ということですね。

 サルトルやハイデッガーなど実存性に真理と求めた学者もいました。以前、宇宙飛行士が宇宙に出ると人生観が180度変わるようなことを書きましたが、”卵が先か、鶏が先か”という議論になり、ものの本質などは人間にはつかみえるものではないと思います。宇宙はビッグバンからはじまったと聞いたとき、じゃ、その前は何があったか?という疑問が沸きますよね。その回答が自然との調和であり、すべて人間が理解しようというのが間違っているのではないかということです。

 もう少し謙虚に、宇宙での、人間の相対的位置付けを認識し、自然との共存をしていくことを考えたほうがよいですよね。オゾン層破壊が問題になっていますが、人間の自己本位な活動の結果、結局、人間自体が被害を蒙っているのですから...^^

 世界平和が叫ばれはじめて久しいですが、異なる価値を認めあって、共存しいくことが、逆に、自己を認めさせるための近道かもしれまえん。

 結局、哲学的に語ってしまいました^^



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“無知の知”の本当の意味
2007-11-18 Sun 23:53
無知の知−よく知れた古代ギリシャの哲学者ソクラテスのことばですね。はじめて聞いたときは、意味がさっぱり分かりませんでした。
 しかし、仕事や人間関係をいろいろ経験しいくうちに、分かってきますね。「物事を知らないと言える人のほうが本当は物事をよく知っている」というその意味を―。

 “知ってる、知ってる”といっているうちは、その知識は本当はそんな深く理解できていないことが多いです。物事を深く掘り下げていくほど、それらの意味が深いことを認識し、“私はまだ何も知らない”と言えるようになります。学生時代、ちょっと勉強して物を知ると、“その知識をさも偉い人になったかのようにひけらかしたことがあります。” 今となっては、そんな自分が恥ずかしくなることがあります。

 英語がしゃべれると、私は英語ができると威張ってしまいます。そうさせる日本の文化や風土にも原因がありますが、英語道(えいごどう)という考えで英語に段や級をつけておられる松本道弘先生は、ご自身がまだ未熟とおっしゃっています。英語を仕事としているものからすれば、先生は、雲の上の人。その方がまだ未熟とは…。知るほど、自分の“無知さ”に気づくのです―。

プラトンのイデア論ベーコンの“劇場のイドラ”‐。学生時代やもっと若いころいろいろ書籍を読み漁りました。でも、その意味がつかめるようになったのはつい最近です^^;プラトンは、人生とは洞窟の壁に映った影にすぎずないといいます。イドラとは、先入観で、知らず知らず、先入観によって物事を観察しているのです。さきほどいった“英語がしゃべれる”といっても、社会背景的に、周辺を海に囲まれた日本では、少しでも英語ができると目立つのです。その“英語ができない”社会背景が先入観ですね―。それを背景に見るから、できるように見えるのです。英語ができるという事実は、壁に映った影にすぎず、本来の自分の潜在能力はまだまだ引き出せていないのです。

賢哲の知識ばかり拝借していますが、理想論を唱えたT.H.グリーン(イギリス)とデューイ(ドイツ)という哲学者がいます。グリーンは、理想とは実現性がない遠くのもののことと捉え、デューイは理想を大きな目標とし、それに向かって小さな目標を少しずつ達成していくことで、最終的に実現できるものといいます。

日常生活においては、後者、つまりデューイが分かりやすいですね。今述べている英語の学習の例では、少し日常会話程度の英語ができるようになったら、それが完成ではなく、次のステップへ進み、それを繰り返すことで、自分の実力をブラッシュアップさせることができ、気づくと驚くほどのコミュニケーション力になっています。
一方、グリーン的にいっきに大きな目標に向かうと、途中でいっきに限界を感じ、ダウンしてしまいます。

 デューイの考え方のように、物事の知識や経験を少しずつ深めていくと、無知の知が自然と見えてきます。
通訳者や翻訳者は、“alter-ego を持て”、といわれます。別の自分ですが、つまり情報発信者=発話者(通訳の場合)になりきるということです。立場を変え、物事を観察することで、自分の無知さが再認識でき、同じ知識でも、新たな知る窓口が見えてきます。この繰り返しで、自分も磨け、コミュニケーション力、翻訳・通訳への感性が磨かれていきます。

 自分の立場や知識の多さを一方的に主張するのではなく、情報発信者の立場や見方にアングルを変えて、迫ることで、語学力だけに頼らない、机上の知識集めだけに頼らない、高いコミュニケーション力を身につけたいですね^^


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